オモイデリバリー

「肉じゃがですね。配達料は百万円になりますが、よろしいでしょうか。」

「はい、お願いします。」

 僕は今、肉じゃがの配達を注文している。料金は百万円。おかしいだろうか。しかし、僕にとってはただの肉じゃがではないから、僕はこの札束を彼女に渡している。どれだけ美味しいのかって思うだろう。だが僕は、その味を知らない。そんな奇妙な契約が成立するには、話は二ヶ月前まで遡る。

「ご飯できたよ」

「ありがとう、今行く」

 朱里がキッチンから暖かい声を響かせた。入籍も済ませ三ヵ月後に結婚式を控える僕らは、久しぶりに息抜きのデートをする約束をしていた。僕の家のすぐ近くの水族館。昼ご飯は節約といって、彼女が僕の家で手料理を振舞ってくれている。付き合い始めて三年、彼女の料理はいつ食べても美味しい。和食、洋食、中華、どれを作らせてもほっとする心地よさがあって、料理が彼女自身を表しているようだった。

「今日はビーフシチュー」

「やった。朱里のビーフシチュ―大好きなんだよな」

「もう」

 彼女は照れくさそうに笑っていた。微笑み返しながら、ビーフシチューにくぐらせたスプーンをゆっくりと口に運ぶ。ドロッとした濃厚な味が舌を刺激しながら、ささやかな酸味とまろやかさが追いかけてくる。ああ、今日も絶品だ。

「うん、やっぱり美味しい。」

「そう、良かった」

 朱里もビーフシチューを食べながら、「うん、美味しくできた」と呟いた。結婚したら彼女と毎日食卓を囲めるのだろうと思うと、少し頬が緩む。

「良かった。これならお嫁に行っても安心だわ」

「何言ってんの。朱里の料理は前からすごく美味しいよ」

「ほんとかなー?」

 そう言いながら彼女は、スプーンをトレーに置き箸に持ち直した。平皿に盛り付けられたご飯を箸で掴み、口に運んでいく。彼女はハンバーグでも、シチューでも、必ず箸でご飯を食べる。僕はそれを横目で見つめながら、シチュー色に染まったスプーンでご飯を食べ進めていく。

 彼女の真っ白なご飯とは対照的に、茶色いシチューの跡が残る。

「ねえ、式場はいつ行く?」

「そうだね。そろそろ料理のコースとかも決めなきゃいけないよな」

「あと招待状よ。あなたいつも私に選ばせるんだから。たまには興味持って選んでよね」

 彼女の愚痴を飲み込みながら、僕はビーフシチューを平らげた。「ごちそうさま」と彼女に伝えると、不満そうに口を尖らせた。

「わかったよ。じゃあ、次の週までにいいなって思う招待状のデザイン選んでおくから」

「必ずよ」

 頷きながら、キッチンへと食器を運んだ。ああ、面倒なことになってしまった。デザインセンスなんて僕にはないのに。そんな風な感情は、後ろからの朱里のハグですぐに消えた。

「じゃあ、そろそろ行こうよ。水族館のイルカショー、混んできちゃう」

「わかったよ。もう、そんなに焦らなくても歩いてすぐなのに」

 話題を逸らされたことに若干不機嫌そうにしている朱里の頭を、僕はそっと撫でた。柔らかなレモンの香りが、指先を通って広がってくる。

「いつでも行けるなんて思ってたら、すぐに見れなくなっちゃうよ」

「先輩どうしたんです、そんな落ち込んで」

「ちょっと彼女、いや妻と喧嘩しちゃって」

「あー、マリッジブルーってやつですか。もしかして」

「そうかもしれないな」

 パソコンを打つ手も止めずに、僕は後輩の言葉を軽く受け流して作業を進める。その姿勢にため息をつきながら、後輩もその手を動かし始めた。僕と後輩、その他数名で進めるプロジェクトは佳境に入っていて、とても無駄話をしている場合ではない。

「仕事はほどほどに、たまには早く帰って奥様のこと喜ばせてあげてくださいよ。ほら、僕らは大丈夫なんで」

「ああ、そうだな」

 久しぶりに水族館デートをしたあの日から約一ヶ月、最近は仕事続きで家に帰っても寝ての生活が続いていた。そんなんだから朱里も快く思っておらず、最近は喧嘩をすることも増えていた。選んでと言われながらすっかり手を付けられていなかった招待状のことを持ち出されて、昨日も軽い喧嘩をした。マリッジブルーというのもあながち間違いではない。いや、そんなのは僕の言い訳で、事務の仕事をしながら式の準備を進めてくれていた彼女に甘えているにすぎなかった。

「じゃあ今日は、早めに上がろうかな」

 作業を止める僕の姿を見て、後輩は幾分かほっとしたような表情を浮かべた。仕事以外にも心配事を増やしてしまうなんて、先輩失格だな。そんなのんきなことを考えていると、ポケットに入れたスマホが震えだす。着信は朱里からだった。

「もしもし、朱里?」

「こちら朱里さんの旦那様のお電話でお間違いないでしょうか」

 電話口から聞こえた声は、朱里の声とは似ても似つかない野太い声だった。

「そうですが、あなたは」

「実は―――」

 電話から聞かされる出来事に、到底理解が追い付かなかった。僕は握りしめたスマートフォンから聞こえる落ち着いてくださいという問いかけを、他人事のように聞き流しながら事の概要を聞く。

 朱里が、事故にあった。

 警察から伝えられた病院に着いた時には、朱里はすでに息を引き取っていた。葬儀を早々に済ませてからも世間は僕を休ませてはくれず、しばらく取り調べとニュース記者に追い回せれる生活が続いた。事件性はなく、やはりただの事故として処理された朱里の死。しかしメディアも警察も首を傾げる、不可解な点が一つあった。

 朱里はあの日、タッパーに入れた肉じゃがを持って出かけていたというのだ。

 弁当であれば今朝も彼女からもらったから、忘れ物を届けてくれたというわけではないだろう。警察は痴情のもつれ、要するに浮気を疑っている節もあったが、彼女のスマホにも家中にもその痕跡はなかった。一体彼女は、その肉じゃがをどこに持っていこうとしたのだろうか。

 警察の捜査もメディアの追及も終わりを迎えたその日、僕は意識的に避けていた彼女の事件現場へ向かった。なんてことない通り道の交差点に、いくつか花束が置かれている。聞いた話によると、自転車のタイヤはくしゃりと曲がっていて、倒れた朱里の頭から流れる血とタッパーからこぼれてしまった肉じゃがが、ぐちゃぐちゃに混ざっていたらしい。僕は現場も、朱里の苦しむ声も、何も知らない。僕が仕事をしている間に、彼女はこの場で事故に遭い死んでしまったのだ。

「朱里、なんで……」

 アスファルトをそっと撫でると、かすかに紅色の跡が残っていた。風に飛ばされて、時が経ち、血生臭い香りなど一切ない。ここで彼女が死んでいったことが、にわかに信じられない。

「どうして、肉じゃがなんて……」

 近くの小料理屋から香ばしい匂いが漂う。焼き魚の香り、出汁の効いた煮物の匂い、そして微かに肉じゃがの匂いも。僕の中で永遠とループするあの日の肉じゃが。鑑識で回収された、地面に流れた肉じゃがの一部。無機質な袋に詰まったそれは彼女の最後の料理だったのに、警察の調査のためにと無残に消えていった。

 あの日の彼女の料理を見たのを最後に、僕の世界から食の喜びは消え失せた。

「いただきます。」

 プラスチック容器に詰められたポテトサラダ、からあげ、コロッケ。チンという音とともにレンジから取り出した白米。独り者にはあまりに広すぎるテーブルに並べられたそれらを順々に食べていく。泥、砂、ガム、ぶよぶよとした気持ち悪い食感。蛍光灯の切れた食卓に並ぶ料理の数々に、栄養摂取以外の目的はなかった。まずすぎる。そう思いながら飲み込んで、胃の中を無理やりに満たしていく。彼女が死んでから二週間、会社は事情を汲んでか残していた有給一ヶ月分を使うように勧めてくれた。彼女もいなく、仕事もなく、僕は屍のように日々を過ごしていた。何もする気が起きず、起きた傍から窓に上る朝日を眺めては、そのまま日が暮れるような日々を過ごしていた。このまま一ヶ月が過ぎて、僕はどうにか朱里のいない日々を受け入れることが出来てしまうのだろうか。そう恐れながら、ただただ死なないために、生きていくために、僕は懸命に食事を摂取していく。

 何のために生きるのかも、わからないままで。

 その時、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴り響いた。ピンポーン、ピンポンピンポンピンポーン。雑な連打音が懐かしくて、条件反射で玄関へと向かう。

「朱里!」

「……あんた、大丈夫?」

「ああ、母さんか」

 心配そうに僕の顔色を窺って、半ば強引にドアをこじ開けて母は部屋に入っていった。

「気持ちはわかるわ。でもね、いつもコンビニ弁当ばっかり食べてたら、朱里ちゃんも悲しむんじゃないかしら。ほら、これ今日のお夕飯」

 そこには、タッパーに収められた料理の数々があった。ありがたいその料理にも、僕の食欲はてんで湧かない。朱里もタッパーにパンパンに詰まった料理たちをいつも持ってうちに来ていた。重さに耐えきれなくて、ピンポン連打で僕を呼び出す。あの料理が愛おしくてたまらなかった。

「ごめん、とても食べる気にはなれなくて」

「駄目よ!」

 見たことのない表情で、僕のことを叱咤する。今までろくに接してこなかったのに。不思議そうに見つめる僕に気づいてか、母は重く口を開いた。

「あの、実はね――—」

 数分、もしかしたら一分にも満たない時間だったかもしれない。そんな時間がたいそう長く感じられるほどに、その話はずっしりと重たく、僕の脳にのしかかった。

「だからほら、ちゃんと食べて。あと、ポストに入ってたチラシも入れておくから……。じゃあね」

 ばたんと扉を閉めて、母は足音を立てて家を出ていった。ビニール袋には大量にため込まれたチラシが押し込まれている。ピザ、水道管修理、寿司の出前、どれもいらないものばかりだ。最近はやりのフードデリバリーのチラシも入っている。

 思い出の味、また食べませんか。

 一際僕の掴んだそのチラシには、『オモイデリバリー』と記されていた。

 こんなんで彼女の味をまた食べられるわけなどない。そう思っているのに、僕の手はスマホを握りしめ、そのチラシの電話番号を打ち込み始めていた。

 ハンバーグ、ビーフシチュー、サバの味噌煮まで。チラシに載ったそれらの料理が、彼女の作ってくれていたそれと、瓜二つだったから。

「オモイデリバリー、ご利用いただきありがとうございます。」

 薄手のコートの中に茶色のエプロン。いかにもな格好をした配達員の彼女が来たのは、電話で予約を入れてから一週間ほど過ぎた日だった。エプロン姿に少し固まってしまった僕を、彼女はまっすぐと見つめてきた。突き刺すような鋭い眼差しに気圧されそうになる。

「配達員のアオイといいます。本日ご注文いただきましたのは、ハンバーグでお間違いないでしょうか」

「ええ、そうです」

「では、失礼いたします」

「ちょ、え?」

 当たり前のように家に上がろうとする彼女の肩を抑える。小さな肩や柔らかい感触に、どこか懐かしさがある。よく見ると彼女の手には、食材が入ったスーパーのレジ袋が握られている。

「家に上がるんですか?」

「はい、そうですが。チラシの方ちゃんと見ましたか」

「もちろん。でも、デリバリーサービスですよね」

「ええ、そうです。デリバリー調理サービスです」

「デリバリー……調理?」

 では、といってアオイは、僕の家へと入っていく。きょろきょろと家を見渡し、彼女はリビングの先にあるカウンターキッチンへと向かった。朱里がいつも僕に語り掛けながら料理してくれたあの場所。まさか違う女性がまた立つことになるとは思わなかった。

 よくよく見てみると、チラシには「調理はご家庭で行います。」と記載があった。ただのフードデリバリーサービスと思っていた僕にとっては、そんなこと思いもしていなかった。幸い、自分で料理などしないものだからキッチンが汚いということはなかった。だが……。

「すみません、調理器具とか家になくて。大丈夫でしょうか」

「なるほど。でも大丈夫です」

 そういうと、アオイはリュックサックから大きなフライパン、ボール、菜箸などの調理器具を取り出していく。洗剤もですか。と呆れながら、レジ袋から洗剤とスポンジを取り出して、持ってきた調理器具を洗い始める。

「用意がいいんですね」

「なんとなく、必要な気がしたものですから」

「何でですか」

「えっと……、なんででしょう?」

「なんですかそれ」

 アオイの思いもよらぬ返事に、気づけば笑みがこぼれだす。こんなに自然に笑ったのはいつ振りだろうか。なぜか幸せそうな僕の姿に、彼女は不思議そうな顔を浮かべた。

「ふふっ。あなた、面白いですね」

 やわらかい表情を浮かべるアオイ。こわばっていた心が、少しほぐれていった。彼女は調理器具を拭き終わると、レジ袋から食材を取り出していった。

「では、これから調理しますので。しばらくお待ちください」

「はい」

 玉ねぎを取り出し、皮をむいていく。透明な中身が光に照らされている姿を呆然と見つめていると、堪らなくなって、僕は彼女に声をかけた。

「あの、見ていてもいいですか」

「はい?」

「料理、どうやって作るのかなって」

「ああ、構いませんが」

 アオイは戸惑いながらも、僕の問いに答えた。綺麗に研がれた包丁を均一のリズムで奏でていく。ザクザク音を鳴らすうちにとどんどん細かくなっていく過程を見つめていると、改めて料理は地道な作業なのだと痛感させられる。簡単にはみじん切りにはならない。切り方を変え、方向を変えて、積み重ねることで細かく小さくなっていく。たった一分数秒の作業が、僕にとっては長く感じられた。ひき肉のパックを引きちぎり、ボウルにそれを放り込む。切った玉ねぎもすかさず入れて、丁寧に混ぜられていくそれを眺めると、やはり思い出すのは朱里のことだった。

「ハンバーグは、こねるほどに美味しくなるんです。まあ、気持ちですけど」

 無言でじっと調理風景を眺める僕との空白の時間に耐えられなかったのだろうか、朱里と同じようなことをアオイは呟いた。目線は決して僕を見つめず、ボウルの中のピンク色の塊に全神経を集中させている。

「昔、妻も同じようなことを言ってました」

「昔、ですか」

「ええ……。先月亡くなりました。事故で」

 一呼吸おいてアオイは、そうなんですね、と呟いた。彼女なりの気遣いだろうか。その後は何も言わずに、ただひたすらにハンバーグを焼き続けた。

 お皿に盛られたハンバーグにかけられたソースは、僕の知っているのと同じデミグラスソースだった。

「お待たせいたしました。こちらハンバーグです」

 勧められるままにテーブルに座った僕の目の前に出されたのは、平凡で家庭的なハンバーグだった。白いお皿に広がった茶色いソースを満遍なく絡めて、箸で切り取ったハンバーグのかけらを口に運ぶ。ほのかな酸味と濃厚なソースが溢れ出す肉汁と混ざり合う。美味しさはあるが、なんてことないありふれたハンバーグだった。

「美味しい、です」

「ありがとうございます」

 謙虚なまなざしに包まれながら、僕は目の前の平凡なハンバーグを口に運ぶ。鉄板ではないから、熱はだんだんと空気に冷まされていく。じっくりと温度が低下していく家庭料理に比例して、僕の胸は熱を帯びていった。なぜだろうか。こんな些細な料理に感情が揺さぶられるなんて。コンビニ弁当でも、母からの食事でも、味覚はピクリともしなかったのに。どこか素朴で温かいこの料理に、僕は彼女の味を思い出させられ、涙が零れ出していた。

「どうかなさいましたか」

「すみません。何か懐かしい味で、つい」

 飲み込んだハンバーグが、どうしようもなくしょっぱい。最後の一口が、どうしても食べられない。空気を吐いて、吐いて、吐いて、痞えた感情が嗚咽とともに溢れ出す。どうしようもなく悲しくて、切なくて、心細い。そうだ、もう朱里の手料理は二度と食べることは出来ないんだ。どこか似ているこのハンバーグも、あの何度も食べた味とは違う。やはりどうしようもなかった。朱里がいない世界では、僕の人生は再生できないのだ。

「好きだったんですね」

「ええ、今でも」

「はい」

 ぼそりと呟いた彼女の顔には、哀れみとも悲しみとも違う、不思議な表情が見えた。アオイのつくったハンバーグをじっと眺めていると、彼女はゆっくりと僕の肩に手を置いた。

「ハンバーグが、彼女との思い出の味なんですか」

「ああ、彼女が結構作ってくれた料理ではありますが、ほんとは肉じゃがです」

「肉じゃが?」

「ええ、彼女が死ぬ前に作ってくれたものなんです。結局食べることができなかったのですが」

 そっと目を閉じる。あの日アスファルトに散らばった朱里の肉じゃがを思い出す。警察署で見たものは色が薄かったから、味が染みていなかったのだろうか。あの日自転車で向かっている時間も見越して、早めにタッパーに移してくれたのかもしれない。一番美味しい状態で僕に渡すために。

「母から聞いたんですけど、妻は僕のために初めて肉じゃがを作ってくれたみたいなんです。ずっと喧嘩続きだったからって、母にわざわざレシピを聞いて、有給まで使って内緒で僕の自宅で振舞おうとしてくれたみたいなんです。見ての通り調理器具なんてないから、わざわざ妻の自宅で作って……」

 あの日母から聞いた話は、ずっと僕の胸に残っていた。レシピを聞いてまで作ってくれて、僕のために運んでくれていた肉じゃが。初めて作ってくれて、僕のために食べさせようとしてくれた肉じゃが……。朱里はそのために事故に遭い、死んでしまった。

「僕が、妻を……」

「奥様、すごい愛してくれてたんですね」

「え?」

「だって、そんな喧嘩続きの中ですよ。わざわざ手の込んだ肉じゃがを振舞うなんてすごいです」

「手の込んだ料理なんですか」

「ええ、刻んで、炒めて、そして長い時間煮込む。結構面倒くさいんですよ。肉じゃがって」

「そうなんだ。知らなかったです」

 アオイの呟いた言葉は、やけに重くて、丁寧なものだった。そうだ、僕は朱里に愛されていたんだ。いつも自宅に来ては手料理を振舞ってくれて、目一杯の笑顔で僕の食べる姿を見つめていてくれた。朱里は僕に数えきれないほどの愛情を、忘れられないほどの思い出を残してくれた。思い出せば思い出すほど、愛してくれた彼女に会いたくて、自然と涙が溢れていた。

「奥様のこと、今でも愛されているんですね」

「ええ、もちろん」

「奥様の手料理、食べますか」

 鼻をすすりながらしっかりと答える僕に向かってアオイが言った言葉は、あまりに突拍子もなかった。

「食べますか、って言いましたか。食べたいですか、じゃなくて」

「はい」

「あの、ちょっと馬鹿にしてますか」

 思いもよらない言葉に眉を顰める僕を、彼女は冷静に表情一つ変えることなく見つめていた。

「オモイデリバリーには、オプションプランがあるんです。そのプランなら、どんな時間、どんな場所のご飯でもお届けすることができます」

「どんな時間もって、まさか」

「はい。過去の奥様が作ってくれた肉じゃがも、それならお出しすることができます」

「本当ですか」

「もちろん。わかりやすく言えば、タイムマシンのようなものです。召し上がりたい時のその食事の場に、あなたを連れていきます」

「あの日の、朱里の肉じゃがを……」

 馬鹿みたいな話だった。幼児向け漫画の一コマのような展開に、胸躍るような歳ではないはずだ。けれども、一番大切なものを失った僕にとっては、そんな非現実的な展開も一つ返事で飲み込めてしまった。ずっと引きずっていた、母から聞いて余計食べることができずに悔やんだあの味が、せめて一口でも食べられるのなら……。たとえ騙されたとしても、一縷の望みに託したかった。

「ただ、オプションプランの料金は一律で百万円となります」

「お願いします」

「え?」

「そのオプションプラン、お願いします」

 こうして、僕は百万円でアオイに「朱里の肉じゃが」をお願いすることとなった。といっても、即金で渡せる手元のお金も、百万円を切れるクレジットカードも、僕は持っていない。

「ちょっとお金おろしてくるんで、待ってもらってても良いでしょうか」

「ええ、もちろん」

 アオイを一人家に残して、僕は手元に落ちていたリュックサックを背負い家を出た。近くのATMで引き出そうとしたら、五十万までしか引き出すことが出来なかった。平日の昼間から大金を下す、くたびれた男。そんな風に見られて窓口で揉めるのもいささか面倒だ。財布の中を漁ると、学生時代に貯金していた銀行口座のキャッシュカードがあったので、その口座からも併せて、計百万円がなんとか下せた。

 丁寧にお札が収まったそれを抱えて走りながら、思い出すのは朱里のことばかりだった。婚約指輪を買うお金をATMから下してリュックサックに入れてきた僕に、彼女はとても怒っていた。大金なんだから大切に扱ってと。百万円なんて大金をこんなことに注ぎ込むなんて、そう誰しもが思うかもしれない。けれど僕にとっては、こんな大金なんてどうでもよくなるほどに、あの日の肉じゃがが食べたくて仕方がなかった。朱里が死んでまで残した料理を、一口でもいいから食べたかった。

「お帰りなさいませ」

 玄関前でお辞儀をしながら、アオイは僕を出迎えた。足元には持ってきていた料理器具などの荷物が置かれている。僕がお金を下ろしている間に、片付けまで済ませてしまったのだろう。

「百万円、下ろしてきました」

「はい、確かに受け取りました。では、行きましょうか」

「行きましょうって、もうですか」

「はい、今からです」

 アオイは僕の手を引っ張りながら、マンション前に止めているバイクの前まで連れてきた。四〇〇㏄程のオートバイは、とてもエプロン姿の彼女には似つかわしくなかったが、慣れた手つきで座席下からヘルメットを出すところを見ると、どうやら彼女のものらしい。

「これを被ってください」

「え、乗るんですか」

「これに乗って、あなたを過去にお連れしますので」

 これまた素っ頓狂なことを呟く彼女に、もはや驚くこともなかった。どういうことですかとアオイに尋ねると、彼女はズボンのポケットからスマートウォッチのようなものを取り出して、僕の腕に着けた。

「わかりやすく言いますと、このバイクがタイムマシン替わりで、あなたを乗せて奥様が肉じゃがを作った日に連れていくわけです」

「わかりました。で、この時計は?」

「タイムリミットを伝えるためのものです」

 スマートウォッチを操作して設定を済ませる。よし、と呟くと、置いてきぼりにされた僕を思い出したかのように話を続けた。

「オプションプランには、いくつかルールがあります。その一つとして、タイムリミットが一時間となっています。提供しますお食事をそれまでに食べ終わるように、予めこの時計をつけさせていただいているんです。タイムリミットの十分前になったらアラームがなるようになっていますので、必ず私のいるところまで戻ってきてください」

 そういいながら、彼女はエプロンから一枚の長細い紙を取り出して、僕に差し出した。受け取るとメニュー表のような見た目のそれに、オプションプランについて、というタイトルが綴られていた。


■オプションプランについて

一、オプションプランは直接スタッフにご注文ください。なお、ご注文時に料金の百万円を頂戴いたします。

二、お食事場所までは、スタッフがデリバリーバイクにてお送りいたします。お食事時間は、バイクから降りられてから一時間となっております。時間以内にお食事を済ませて、スタッフの元までお戻りください。

三、オプションプランはご注文のお食事一品のみをお召し上がりください。それ以外のお食事のお召し上がりは禁止しております。

四、当オプションプランは、一部歴史介入となっております。過度な干渉、歴史への介入はお控えください。


「こちらのご注意事項は、必ずお守りいただくようお願いします」

「破るとどうなるんですか」

「私もそこまでは。ただ、大変なことになる、とは聞いております」

 なんだよそれ、と言いたくなったが、アオイの噓偽りのなさそうな瞳を見て言葉を飲み込んだ。とにかく僕にはこれしかないんだと、自分を言い聞かせるようにしてポケットにルールブックを仕舞う。

「それでは、行きましょうか」

「お願いします」

 ヘルメットを被り、アオイの乗るバイクの後ろに跨る。ヘルメット越しからも聞こえるボリュームのエンジン音をかき鳴らすと、運転席にある黄色いスイッチを押した。ヘッドライトが強く光って、目の前の道を強く照らす。その先の道は、もはや見えない程に眩しい。しかしそれにお構いなく、彼女はフルアクセルでバイクを走らせた。吹き飛びそうになる速度に、僕は自然とアオイの腰元にしがみつく。柔らかく華奢な背中に、朱里の面影を思い起こす。そのまま緩めることなく進んでいく光の道を、僕はただ茫然と見つめていた。時計が無数に描かれた青いトンネルを想像していたのだが、現実はずっと平凡だった。しばらくすると、アオイはアクセルをゆっくりと緩めていった。徐々に周りの景色が見えてきて、見慣れた道路の道のりへと繋がっていく。

「ここって」

「あなたのご自宅の近くの道です。このまま奥様のご自宅近くまで向かいます。場所を教えてください」

「わかりました」

 ヘルメット越しに彼女に道を教えながら、数分で朱里のマンション近くに到着した。人一人いない住宅街外れの道路で、アオイはバイクを止める。僕は慌てて、ポケットからスマホを取り出す。時刻は朱里が死んだ当日の十四時を差していた。信じられないが、本当に僕は過去に連れてこられたらしい。

「本当に過去に来たんですね」

「ええ。それで、奥様が亡くなられたのはいつ頃ですか」

「刑事さんの話だと、十七時だと」

「では、大丈夫ですね」

 そういうとアオイは、僕の腕に着いたスマートウォッチを操作して、タイマーをセットした。

「一応お伝えいたしますが、こちらのいわゆるタイムスリップでは、過去のあなた自身も存在しております。この時間あなたはどちらに」

「会社です」

「でしたら、会社の方への連絡や会社付近へ行くようなことはお控えいただければと」

「わかりました」

 いわゆるタイムパラドクスを防ぐためだろうか。事務的な注意事項の伝達を僕は了解して、バイクから降りた。ヘルメットをバイクの座席に置くと、そわそわした僕に気づいてか、アオイが僕の行動を促した。

「もう行って構いませんよ。先ほど申しました通り、くれぐれもルール遵守でお願いします」

「はい、ありがとうございます」

 目の前のアオイに礼を言うと、僕は見慣れた街を走りだした。ここから朱里の自宅まで十分。外に出ることも考慮すると、今すぐにでも彼女に会うことが先決だろう。朱里が死んでしまう前に。僕は握りしめたスマホから彼女に電話を掛けた。三コール目で待機音が切り替わり、聞きなじみある声が聞こえてきた。

「もしもし。どうしたの急に。仕事は?」

「えっと、今日は早上がりにさせてもらったんだ。最近忙しくて喧嘩ばかりしていただろ。だから、ゆっくりしたいなって」

 僕が抱いていた後悔の言葉を、彼女に伝える。何度祈ったって儚く崩れた願いが、今は目の前に届いていることを実感した。僕は今、どんな言葉だって、想いだって、朱里に伝えることが出来るんだ。そう思えるだけで、止めどなく涙が溢れてきた。

「なに、泣いてるの?」

 電話口の僕の様子に気づいてか、朱里は消え入りそうな声を電話口に漏らす。気のせいだよ。そうごまかそうとすると、彼女は一変して笑い声を聞かせながら、そんなに謝りたかったんだーと挑発めいた口ぶりで呟いた。

「ふーん。じゃあ私の家、来てもらおうかな」

「いいの?」

「うん、丁度あなたの家に行こうと思ってたところだったけど、家で待ってるね」

 少しの喜びを漏らしながら、朱里はそういって電話を切った。直線距離で約五分。僕は閉じこもり続きでなまりきった身体に鞭を打ち、全速力で駆け抜けた。

 少し年季の入った、しかしながらセキュリティのしっかりしたマンション。僕は彼女から借りているスペアキーを使い、エントランスのオートロックを解除した。鈍く開く自動ドアを潜り抜けて、二〇五室の扉を開ける。唐突に開いた入口に、廊下の先のリビングで、茶色いエプロン姿がピクリと肩を震わせた。そこにいたのは、紛れもなく朱里だった。

「ちょっとー。ピンポンしてくると思ったのに。びっくりしちゃった」

 少し焦りながら、笑顔を見せる朱里。彼女の笑顔は雨上がりの虹のようだった。喧嘩して、怒って泣いて、それでもやがて訪れる仲直りの兆しを待っていたかのように、彼女は笑っている。付き合って二ヶ月の時の最初の喧嘩、朱里は勝手に長期出張を承諾したことを怒っていたことを、その時ふと思い出した。

「付き合うって、なんでも相談しあうってことじゃないの。伝わらないこともある分、お互いのことを教えあうってことじゃないの」

 彼女の震えるような声に、その後の晴れわたった仲直りの笑顔に、僕は生涯彼女の側にいることをぼんやりと、けれども確かに誓った。もう見れないと思っていた、彼女のその笑顔を、震える身体を、抱きしめることは叶わないと思っていた。

「朱里、ごめん、。ごめん……」

 びっくりする朱里に向かって、僕は精一杯の想いをぶつけた。しわくちゃになってまるで惨めな泣き顔で、僕は力一杯彼女を抱きしめた。どうしたの、ねえ。問いかける彼女の声を弾き飛ばすほどの嗚咽が、僕と彼女だけの空間を占領した。アスファルトを打ち付ける大粒の雨のように、数分間、僕の声は止むことがなかった。

「どうしたの、なんかおかしくない」

 ひとしきり泣きつくした僕に向かって、朱里は不思議そうな目を向けた。歴史への干渉はしてはいけない。僕は彼女が死ぬことを、教えることも止めることもできない。僕は息を整えて、震える唇を開いた。

「朱里が、いなくなってしまうような気がしたんだ」

 精一杯の一言だった。朱里はその言葉に、一粒の涙をこぼした。顔の輪郭を沿って落ちていったそれは、やがて彼女の羽織る黄色のブラウスに、かすかなしみを作った。

「なに言ってんのよ。私があなたの前から消える理由、ないでしょ」

 途切れ途切れの声に、僕は少しだけ頬を緩ませた。そうだよな。すらりと出た一言に、朱里は、うん、とだけ言った。

「はあ、そうだ。ちょっとお腹空いてない?」

「空いてる。すごく」

 食い気味に返事をした僕に朱里は驚き、そして笑った。何気ない日常に戻ってきた幸せに気付いたと同時に、キッチンの方からほんのりと美味しそうな香りがすることに気が付いた。

「食べてってよ。肉じゃが作ったから」

「うん、ありがとう」

 そそくさとキッチンに向かう朱里の足取りは、心なしか軽そうだ。あの日彼女が作ってくれた肉じゃがを、僕はようやく食べることが出来る。そのどきどきと微かに覗く悲しみに胸をいっぱいにしながら、リビングの椅子に腰を下ろした。彼女は木製のトレーを持ちながら、僕の目の前の席に着いた。トレーには小さな器に盛られた肉じゃがと、お箸が一膳。僕が朱里を見つめると、少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「もう。あなたの家でご飯炊こうと思ってたのにさ。肉じゃがしか出せないじゃない」

 尖らせた口元は、味見をしたのか微かに濡れて光を吸収している。ありがとう、嬉しいよ。そう思いのままに呟いて、手を合わせた。

「いただきます」

 目の前の箸を右手で取り、余った左手で器を持ち上げる。味のしみた人参、豚肉、しらたきとじゃがいも。僕は頂上に盛られたじゃがいもと豚肉を一緒に持ち上げて、そっと口元に運んだ。口一杯に出汁の風味が広がっていき、柔らかく煮詰められた豚肉とじゃがいもはほろほろと口の中で崩れていく。出来立ての熱さにびっくりして、思わず口の外に熱気を追い出す。けれどもそのうまみはずっと口の中にとどまって、懐かしさとともに僕の胸に温かな喜びを届けてくれる。

 美味しい、それだけでは片づけられない。目の前の料理は、僕が想像していたよりも何千倍も美味しく、それこそ百万円を出すのも惜しくないほどのものだった。

 噛みしめていくほどに思い出されるのは、かつての朱里との食卓での日々だった。笑って、味わって、少し喧嘩して、仲直りして、また食べて。幸せという一つの言葉がぴったりとピースにはまるような食卓が、走馬灯かのように駆け巡った。ビーフシチュー、カレー、サバの味噌煮、豚の生姜焼き、煮込みうどん。朱里の得意料理は、どれも茶色い汁気のあるものだった。僕の舌に合わせてなのか、元からそうなのか、彼女に聞いたことはない。ただどれも、やさしさに包みこまれたような味だった。

「なんで、肉じゃがだったの」

「え?」

「いや、珍しいなって思って」

 確かに朱里は母から僕のために肉じゃがのレシピを聞いてくれた。しかし僕は彼女との食卓で、肉じゃがなんて出たことがなかった。さらに言えば、好きではあるが、僕が大好物の料理というわけでもなかった。あの日母から聞いてから、そのことがずっと引っかかっていた。なぜあの日、朱里は初めて肉じゃがを作ったのか。

「ああ、実はね、お決まりの料理だったの」

「お決まり?」

 朱里は照れた顔を逸らして、小さな吐息を漏らす。

「お父さんとお母さんが喧嘩したときはいつもね、お母さんが肉じゃがを作ってたの。喧嘩しても当たり前に食卓を囲むじゃない? その時お母さんは、大好物でも何でもない肉じゃがを作って、味染みてるから早く食べてって言ってたの。大学生の時聞いてみたらね、初めて大喧嘩したときに、不思議と肉じゃがを二人で食べたら仲直りしたんだって。それから決まって、お母さんは喧嘩した日は肉じゃがを振舞っていたみたいで」

 髪をかき上げる横顔は、かつて父と母とで囲んだ食卓を思い出しているようだった。うっすらと浮かべた笑みのその先には、淡い素敵な思い出が広がっているのだろう。

「私、お母さんみたいになりたかったの。結婚するって、そういうことだから」

 そっとはにかむ笑顔は、机を挟んだ僕を包み込むような優しさに満ちていた。

「私と、あなた。心離れた時も、自然と通じ合える。それが、私が憧れている家庭だから」

 相談しあい、教えあう。かつて彼女が以心伝心なんて迷信かのように呟いたあの一言を、僕は思い出した。朱里は『付き合う』から『添い遂げる』に変わろうとしていた。かつての母の面影をなぞるように、妻になろうとしてくれていた。何がマリッジブルーだ。彼女は僕なんかよりもずっと深く、熱く、真剣に、夫婦になろうとしてくれていたんじゃないか。

「え、ちょっとどうしたの」

 溢れる情けない涙が、止めどなく机のふちを濡らしていった。何でもないんだ、ありがとう、ありがとう。朱里の顔は見れない。けれども、優しい声が包んでくれていた。うん、どういたしまして。その一言が、僕を朱里の夫にしてくれたのだと、僕は確信した。

「絶品だよ。朱里の肉じゃが。どこの肉じゃがよりも絶対に。本当に」

「何? 今日は随分と褒めてくれるね」

「いつも、本当にそう思っていたよ」

 今の僕たちは、どこまでも通じ合えるように感じた。ゼロ距離の心の声が、呼吸するように汲み取れる、そんな風に感じた。けれども、僕は伝えずにはいられなかった。僕の感謝を、愛情を、喜びを。目の前の朱里は、やはりどこまで行っても、あの日の彼女だから。僕はずっと遠くの場所で、手の届かない彼女に向けて、叫ぶことしかできないのだから。

 スマートウォッチが無情にも僕の腕を振るわせる。文字盤は残り十分を知らせている。僕は急いで目の前の肉じゃがを口いっぱいに含んで、椅子から立ち上がった。

「どうしたの」

「ごめん、急用を思い出して」

 なんとか最後の一口を飲み込んだのちに、僕は朱里にそう伝えた。そんな、と口をこぼしそうになっているのを、僕は気づかないふりをして駆け足で玄関に向かった。

 足取りは絶望的なほどに重かった。もう朱里には、正真正銘二度と会えない。僕は死にゆく自分の妻のことを、見過ごすことしかできない。輝かしい純白のウエディング姿も、憧れの家庭での日々も、彼女には二度と来ない。それが悔しくて、堪らなかった。

「行っちゃうの。せっかく来てくれたのに」

 一瞬、どちらの彼女と話しているのかわからなくなった、まるであの日のあの出来事を知っているかのように、朱里は悲しそうな瞳を僕に向けてきたのだ。

「朱里……」

 死なないで。そんなことは言えなかった。僕は延々とも思える沈黙の時間を過ごして、死ぬ前の妻へ一言だけ告げた。

「愛してる」

 力強く閉めた扉を、僕は振り返らずに駆け抜けた。足を止めずにただひたすら、戻りたいはずの日々から抜け出すように駆け抜けた。泣かない。噛みしめた口の中に、ほのかな肉じゃがの残り香を感じる。彼女のくれた愛情が、温もりが、口元を通して思い出される。きっとこの思い出だけで、この先も過ごしていけると思えるほどに、愛おしい記憶が僕を包み込んでいた。もう大丈夫。きっと前を向いて、生きていけるんだ。そう心に呟いて、僕はアオイの元へと駆けていった。彼女は待ってくれている。僕が戻るべき場所に連れていくために。あの虚ろな瞳を思い出しながら、坂を下った。

「アオイ、ありがとう」

 僕を下ろしたあの場所に着くと、いるはずのアオイに向かって声をかける。だがそこには、人影一つなく、止めてくれていたはずのあの場所にも、バイクの痕跡すらなかった。

「そんな、僕は時間も間に合って……」

 焦りとともに、僕は腕のスマートウォッチに目をやる。しかし、時計の表示はなく、それどころか電源すらつかない状態だった。おかしい、時間は間に合っていたはずなのに。僕はアオイから伝えられた言葉を一つずつ思い出していく。そしてふと、ある言葉を思い出して、僕は走ってきた道のりを再び引き戻した。

「まさか、朱里」

 残された可能性は、一つしかなかった。僕が朱里と会ったことで、確実に起こったこの世の変化。それは朱里が、僕の家へと向かう必要がなくなったことだ。それが何を示すかなんて、考えもしなかった。疲れた体に二度の全力疾走はさすがに堪える。息を切らしながら駆け上がった先にある、朱里の家へと僕は再び向かった。

「朱里!」

 ピクリ、と肩を揺らす影を見つけた。僕は迷わずそこに近づいていった。僕の考えが正しければ、僕の行動の結果によって朱里は死なずここにいるはずだ。だが、僕を見上げているのは、朱里ではない。そして、僕の良く知っている人物だった。

「私は……」

 しゃがみつくす彼女は紛れもなく、あのアオイだった。茶色のエプロン姿で、あの場所で止めたバイクと一緒に、僕を待っているはずのアオイだった。

「おい、なんでここに」

 そう声を掛けると、アオイは怪しげに僕に尋ねた。

「あなたは、誰ですか」

 はあ? 思わず漏らした声に、またびくりと肩を震わせてアオイは背を向けた。まさか、彼女が僕のことを忘れたとでもいうのか。飲み込み切れない状況に頭をフル回転させている最中、僕はふと、ポケットの中のルールブックのことを思い出した。しわくちゃに仕舞われたそれをじっくりと見るが、やはり読んだ通りのことしか書いていない。諦めてまたポケットにしまおうとしたとき、一瞬視界に映りこんだ裏面の記述に気が付いた。

「これは……」

 そこには、ルールの続きが記されていた。


・ルールを破ったものに関しては、以下のペナルティを与える。

―移動した時間軸に留まり、当人とは別人として本デリバリー業を引き継ぐこととする。

・また、歴史の改変によって受けた影響は、以下に準ずる。

―歴史の改変、または操作によって死亡するはずの者が生存してしまった場合、影響を最小限にするため、容姿を変えて記憶を失くした状態にする。

……


 リビングの窓に映る僕の姿は、かつての自分とはかけ離れたものになっていた。僕はこのルールブック通り、別人となってこの世界に取り残されたのだ。

 そしてここで座り込むアオイは、死ぬはずだった朱里の、いわば生まれ変わりなのだ。エプロン姿も、おそらく料理をもう一品作り始めようとした矢先に歴史改変の修正作業が発生したためなのだろう。つまり、アオイは正真正銘、あの朱里なのだ。

「君のハンバーグ、とても美味しかったよ」

「えっ」

 不思議そうに振り返るアオイに、朱里の姿を重ねる。数分前に伝えた言葉を、思い出す。

 健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、生まれ変わった時も。彼女を愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか? どこかから誓いの言葉を読み上げる声が聞こえてくる。優しい妻のように包み込むその声に、僕はじっくりと目を閉じる。きっと今度は、僕から彼女と夫婦になる番だ。

「君の名前は、アオイだよ」

 私のこと知ってるの? 不思議そうに見つめるアオイに、そんなところだと答える。まずは彼女のレシピノートを見つけるところからかな。自分のこれからを考えて、このオモイデリバリーを行うために、僕は自分に言い聞かせた。

 きっとこれから、僕たちは互いの言葉を何度も交わしていくことになるだろう。あの日出会った、独りぼっちだったアオイとは違い、彼女には僕がいるから。鳴りやまない鼓動を受け入れて、僕は心に決める。通じ合えるその日まで、僕はアオイと夫婦になろうとし続けることを。

「オモイデリバリー、それが僕と君の、お仕事さ」

 キッチンからタイマーの音が響く。きっとこのご飯は、僕たちが最初に届ける、誰のためでもない僕たちの料理となるだろう。

 食卓の準備をしようと立ち上がった僕を見つめて、アオイはうっすらと虹のような笑顔を向けた。

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