世は新年度。入学や入社を迎えたキラキラした若者たちに溢れていますが、そんな希望の裏、対照的な表情を浮かべている社会人たちもいます。というのも、僕もその一人ではあるんですが……。
これは、そんな僕のとある「ルーティン」がきっかけで起こった、絶望的な体験のお話です……
冒頭にも話した通り、四月を迎えた僕は、キラキラした若者たちの表情とは打って変わって、毎年の絶望感を顔に張り付けたような状態でした。申し遅れましたが、僕は某大企業の経理部に勤めるサラリーマンです。そう、経理部。僕の勤める企業はスタンダードな三月決算。なので毎年この時期は年次決算や株主総会の準備が重なり、まさに繁忙期です。
僕はプロパーでこの企業に入社して五年目のタイミングでこの経理部に移動となり、早十数年この荒波に揉まれてきています。
思えば最初に移動になった時は大変でした。ずっと続けていた営業とは違ってアポやミーティングでの外出もないし、人との交流も経理部の限られたメンバーが多い。長年のルーティンとは違いすぎる毎日に、モチベーションの上がらない日々を過ごしていました。
ですが、そんなことを言っても仕方がない。会社の人事に従って職務を全うするサラリーマンとしてのプライドは、多少なりとも持っています。ですから、自分の闘志を底上げするための対策を考えるようになりました。そうして導き出されたのが、「リレースタート法」です。
何を隠そう僕は、押しも押されぬ箱根駅伝の有名大学陸上競技部出身。かの有名なコースを走り抜け、テレビの特集にも出るようなちょっとした有名人でした。それは置いといて、とにかく僕はスタミナと根性だけは誰にも負けない自負があったんです。その当時の気持ちを思い出して、心の中で「よーい、スタート!」と掛け声を掛けるようにしました。不思議とそれをするだけで一気に仕事への熱が入って、力が漲るんです。そこから現在まで、このルーティンはずっと続いていました。
そして今回も、この難局を乗り越えるべく、いつものルーティンを行ったんです。ですがその時、幻聴か何か、頭の中に声が聞こえてきたんです。
「ゴビョウマエ……、サン、ニ、イチ」
どこかで聞いたことのあるような、でも顔の浮かばない女性の声。どこから声がしているんだと不思議に思っていると、デスク目の前に人が来ていました。以前同じ営業部で順位を争っていた同僚です。
「ごめん、この領収書どうにかならない?」
渡されたのは一枚の領収書。海外出張のチームメンバー分の往復の交通費でした。額も大きいもので、思わず動悸が……。二、三日過ぎたくらいだからどうにかなるでしょ。なんて奴は軽口を叩きますが、この忙しい時期に急遽の経費調整は結構な痛手です。
でも仕方ない、やるしかないか。そう思っていると、頭の中に聞きなじみのあるメロディーが流れました。そして、
「スタート」
またです。機械的な女性の声が聞こえてきます。ああもう、僕の完璧名ルーティンの邪魔をされるなんて。そう苛立っていたら、また違うメロディーが流れてきたんです。学生の時とかに聞いて以来の、純粋なドレミファソラシドのドの音。
ていうかこれ……、あれだ、シャトルランだ!
そうです、学生の時の身体測定でやったシャトルラン。結構上位まで食い込んで、でも学年一番のやつに毎回負けていて苦い思いをしたあれ。あれと全く同じ音楽が流れていたんです、頭の中で。
そしてそれは止まりません。ゆっくりとリズムを整えるように、次はレの音。もしかして、この音楽の中で難局をクリアしろと、そういう試練なのでは? そう思った僕は、むしろやる気バリバリです。やってやりますよ、この勝負。今年も難局を超えてやる!
そう思っていたら、ソの音楽が鳴りやまない内に、経費の問題は解決してしまいました。
ちょっとやる気を出しすぎたかな? なんて思って通常の年次決算業務に戻りました。でもですよ、消えないんですよ、音が。問題をクリアしても、ゆっくりとそのリズムを刻むんです。ラ、シ、ド、って。そし鳴りやんだと思ったら、ドン、という音とともに、また女性の声が聞こえてきました。
「イチ」
え、これじゃほんとのシャトルランじゃん。なんて慌てふためきました。忙しすぎてとうとう頭がおかしくなったのか。なんて思ってる傍から、今度は隣のデスクで経理部の同僚が声を上げます。
「まずいです、部長が電車の人身事故に巻き込まれて、税理士さんとの打ち合わせ行けないって……」
またまたピンチです。部長が行くはずだった税理士さんとの打ち合わせ、今月中に確認しておきたい細かな年次決算の確認事項があったんです。同じく繁忙期の税理士さんの打ち合わせの都合がついたのが、今日の打ち合わせ時間である一時間のみ。それを逃すとなかなかタイミングが合わないというのに……。
そして僕は、経理に来てから十数年という月日で出世コースに上り詰めたわけで、部長がいかないとなると、僕が行くしかないんです。
よし、今から走れば何とか間に合うだろう。そう思ってオフィスのドアを出た時、また聞こえてきました。ド、という音が。しかも今度は、ドレミファソラシドの後ろのドです。
ピンチの折り返しってことか? 燃えてくる演出しやがって。
単純な僕は、俄然火がついて全速力のダッシュで事務所へと向かいました。現役時代とは似ても似つかないフォームではありますが、苦節二十数年のサラリーマン人生の歴史が、僕の走力をたぎらせました。ギリギリ間に合う電車にも乗れて、事務所に着いた頃には最初のドの音が鳴り終えてました。
「ニ」
その声と共に、音楽は鳴りやみました。よし、また僕は難局を乗り越えた。さてと、このまま本社に戻って業務だ。ピンチの後の電車は不思議と空いてるように思え、爽快感を覚えながら会社に戻りました。
さて、また年次決算業務の再開だ! そうPCを開いた時、今度は経理部のメンバーたちが慌てだしました。
「やばいです、●×さんが眩暈で倒れて病院行ったんですけど、インフルエンザだって……」
驚く間もなく流れてきた、ド、の音。
そこで僕は覚悟しました。
このトラブルの数々が、シャトルランのように繰り返し続いていくって……。
そんな僕の予想は、幸か不幸か見事に当たりました。●×さんの不在に、隣に座っていた社員の感染、その間にも絶え間なく続くトラブルの連続……。人員が少ない中で繁忙期の業務を一週間こなさなければならないという絶望的状況です。
そしてその間にも、絶えずあのメロディーは流れていました。焦燥感を駆り立てるリズムに反発するように、僕は数々のトラブルを潜り抜けていきました。もはや、その連続の記憶は目まぐるし過ぎて覚えていません。
そして、いよいよ年次決算業務も残すところあと一日というところまで来ました。
「ニヒャクヨンジュウロク」
ここまで来たら、もう終わりだ……。今年度のゴールも見えてきた中で、怖いものはなにもありません。ようやく今年度の決算が終わる……。そう胸を撫でおろしていた時、部長が僕の肩を叩きました。
「君、この経費処理たちはどういうことかな?」
目の前に出された書類にまとめられていたのは、僕が営業部の同期と結託して水増し請求や架空請求をしてきた領収書の数々でした。
ドレミファソラシ……。
頭の中に響く、高速のメロディー。
追いつこうにも、僕の言い訳では間に合いそうにありませんでした……。

